奇想の画人
美術史家・辻惟雄先生のご著書「奇想の系譜」に名を連ねている
アバンギャルド絵師、伊藤若沖・曽我蕭白に加え、円山応挙・長沢芦雪、
四絵師の特集ページを作成致しました。作品一点、一点に、それぞれ異なった個性が見えて、楽しいものになりました。
撮影者:堀出恒夫
伊藤若冲(1716~1800)
江戸時代中期の京都で活躍した絵師。
若冲は、それまでの日本の絵画にない奇抜なモチーフ、独特な画面構成により、奇想の画家として、また江戸美術を代表する画家の一人としてよく知られています。
名は汝釣、字は景和。斗米庵、米斗翁、心遠館、錦街居士などと号しました。京都錦小路の青物問屋「枡屋」の長男として生まれ、数え年で23才の時に父親の死去に伴い家業を継ぎます。
その後、40才の時に弟、白歳(はくさい)に家督を譲り、絵画制作に没頭。
江戸中期の京都においてその個性的な画風は異彩を放ち、大きな評判を呼びました。
天明八(1788)年の京都大火で被災し、一時大坂に滞在したものの、晩年には京都市伏見区の深草にある黄檗寺院、石峰寺の門前に隠棲し、晩年を過ごしました。
曽我蕭白(1730 ~1781年)は江戸時代中期の絵師で、丹波屋あるいは丹後屋という京都の商家に生まれました。本姓は三浦氏、名は暉雄。蕭白のほか蛇足軒、虎道、鬼神斎などと号しました。京狩野の流れをくむ高田敬輔に師事したとされ、伊勢地方を遊歴し現在でも多くの作品が伊勢にのこっています。
蕭白は自らを曾我派の末裔を称し、中国の故事人物など伝統的な主題を多く描きました。敬輔の奇抜で大胆な画風を学び、それを昇華させた蕭白の作品は、主観と個性を前面に押し出したエキセントリックな表現が特徴です。
円山応挙(1733~1795年)
江戸中後期にかけて京都で活躍した円山応挙は、中国画や西洋画の技法を取り入れつつも、自然や事物の美しさをありのままに描く「写生」をもとにした画風で一世を風靡しました人物です。その繊細で親しみやすい画風は、それまでの狩野派を主流とした日本の絵画観を一変させ、近代京都画壇の原点ともなった円山派を確立しました。
長沢芦雪(1754~1799年)は、丹波国篠山藩藩士・上杉彦右衛門の子として育ちました。
芦雪25歳の時、応挙の家で『東山名所図屏風』を制作。既に、応挙門下にあったことが知られています。
1786年から1787年(天明6年から7年)、南紀に滞在した折には多くの障壁画を描き、当時訪れた寺には、現在も多くの障壁画が残ってます。
1799年(寛政11年)、大阪で客死。自由奔放で、傲慢な性格であったと言われ、応挙に破門された、毒殺された、など様々な逸話がありますが、芦雪の足跡を残す資料は少なく、謎の多い人物です。
ギャラリーに於ける展覧会の開催が難しい為、「奇想の画人」の作品カタログを作成いたしました。
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