土田麦僊(1887-1936)は、大正、昭和時代の日本画家。新潟県佐渡郡新穂村(現在の佐渡市新穂)の生まれ。本名は金二。哲学者の土田杏村(茂)は弟。
17歳の時に京都の智積院に預けられたが、得度前に出奔し、鈴木松年の門下に入り、間もなく竹内栖鳳の門下に転じた。明治41年(1908)写生画を推し進める栖鳳が中心となった第2回文展に『罰』を出品し、三等賞を受賞。翌年創立された京都絵画専門学校別科に入学した。11年の卒業制作『髪』は第5回文展で注目され、大正7年(1918年)、麦僊は同じ京都市立絵画専門学校出身の同士であった村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花らとともに国画創作協会を旗揚げし、官展を離脱して新日本画開拓の運動を起こした。明治21年から23年にかけてヨーロッパに遊学。印象派、後期印象派の影響を強くうけ、伝統的な日本画に西洋絵画の重厚なマチエールや合理的な空間把握、幾何学的な構図などを取り入れた新たな様式の創造を目指した。昭和3年(1928)に国画創作協会が解散すると、帝展に活躍の場を移し、昭和5年には審査員、9年には帝国美術院会員となった。

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「舞妓下絵」

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土田麦僊

「舞妓」

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「模写古画軍鶏図」

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「舞妓図」

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「大原女図」

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「白梅に月図」

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「春のしらべ」

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「紅梅鴛鴦図」

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