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「花瓶図」

富岡鉄斎

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作家名
富岡鉄斎
作品名
「花瓶図」
寸 法
本紙:123.5×41.5cm
総丈:185.8×62.5cm
手 法
紙本・淡彩
制作年
明治2年(1869)
備 考
・賛:大田垣蓮月(1791~1875)
・画面左上款記:「己巳春晩写/寄室/多氣志楼老叟/鉄斎書」
・賛文:「咲いでて、よもにほへる/はなはちす、清き/やきみの、こころちるらん/蓮月/七十九才」
・印章:「鉄斎」
・清荒神清澄寺に関連作品が所蔵。
解 説
大田垣蓮月が和歌を書き、富岡鉄斎が花瓶を描き添えた作品。
花瓶は、輪郭をとり、輪郭の内側を薄墨で筆跡を残すように塗ることで、質感を表現している。花瓶から延びる花は没骨で表現されており、ホタルや、下方に描かれる花卉など一部には、彩色を用いている。
賛文に「己巳春晩写/寄室/多氣志楼老叟」とあり、多氣志楼とは、松浦武四郎の号。
本作と同時期に描かれた鉄斎筆、蓮月賛「花瓶図」が清荒神清澄寺に所蔵されており、その賛から、明治2年(1869)3月東京行幸に供奉する鉄斎に、蓮月が和歌を書いた紙を送り、それを東京神田の旅宿で花瓶を描き添えたものであることが確認できます。本作も同様に、東京神田に住していた武四郎宅で、蓮月に送られた紙に花瓶を描き添えたことが想定される作品です。

松浦武四郎(1818-1888)は、幕末、明治期の探検家、著述家。伊勢国(三重県)の出身。幼名竹四郎、のち武四郎。諱は弘、字は子重。号は北海道人、多気志楼など。天保4年(1833)以来諸国を遊歴、一時僧になるが、弘化元年(1844)帰郷して還俗すると、単身北行し、蝦夷各地を探査した。府蝦夷地御用掛に登用され、維新後、明治2年、開拓判官となり、北海道名、国名、郡名を選定したが、同3年辞職し、全国遊歴と著述の日を送った。

富岡鉄斎(1836-1924)は、明治・大正期の文人画家・儒学者。日本の文人画の最後の代表的な作家。京都三条の法衣商、十一屋伝兵衛・富岡維叙の次男。名は初め猷輔のち道節、さらに百練と改める。字は無倦。号は初め裕軒のちに鉄斎、ほかに鉄崖、鉄道人がある。幼少から国学、漢籍、陽明学、画事を学び、安政2年(1855) 頃には、心性寺に歌人大田垣蓮月の学僕として住み込み、薫陶を受けた。
幕末期には、勤王志士らと盛んに交流し、国事に奔走。維新後は、歴史、地誌、風俗を訪ねて各地を旅行したり、奈良石上神宮、和泉の大鳥神社の宮司となって神道復興に尽くすが、明治14年(1881)京都に帰り画業に専念した。田能村直入、谷口藹山らと日本南画協会を発足、学者としての姿勢を貫きながら、自由な作画活動を展開し、その学識と画技により文人画壇の重鎮となる。大正6年(1917)に帝室技芸員、大正8年(1919)には帝国美術院会員に任ぜられている。

大田垣蓮月(1791-1875)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠。菩薩尼、陰徳尼とも称した。京都の生まれ。実父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖。知恩院門跡に勤仕する大田垣光古の養女となる。夫との死別後、出家して蓮月と号した。歌は小沢蘆庵に私淑、陶器も焼きこれに自分の歌を浮き出させた蓮月焼がある。
富岡鉄斎の販売作品一覧
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