富岡鉄斎
富岡鉄斎(1836-1924)は、明治・大正期の文人画家・儒学者。日本の文人画の最後の代表的な作家。
京都三条の法衣商、十一屋伝兵衛・富岡維叙の次男。名は初め猷輔のち道節、さらに百練と改める。字は無倦。号は初め裕軒のちに鉄斎、ほかに鉄崖、鉄道人がある。幼少から国学、漢籍、陽明学、画事を学び、安政2年(1855) 頃には、心性寺に歌人大田垣蓮月の学僕として住み込み、薫陶を受けた。
幕末期には、勤王志士らと盛んに交流し、国事に奔走。維新後は、歴史、地誌、風俗を訪ねて各地を旅行したり、奈良石上神宮、和泉の大鳥神社の宮司となって神道復興に尽くすが、明治14年(1881)京都に帰り画業に専念した。田能村直入、谷口藹山らと日本南画協会を発足、学者としての姿勢を貫きながら、自由な作画活動を展開し、その学識と画技により文人画壇の重鎮となる。
大正6年(1917)に帝室技芸員、大正8年(1919)には帝国美術院会員に任ぜられている。