
作家名
作品名
「永井信濃守宛消息」
寸 法
本紙:30.1×43.4cm
総丈:114.2×64.0cm
総丈:114.2×64.0cm
手 法
紙本・墨
備 考
・古筆了意極札有
【読み】
雨中御徒然と存候
然者ほたんミそ《(こ?)》へに一りんさき申候
めつらしきいろにて候拙者うちにてハ
是ニつゝき申花無之候御めにかけ候
つはき一りんめつらしきと
存候一りんハまち《(町)》にて候
いさはい《(諫早)》よくさき申を二りん
右の分進上申候恐惶謹言
八日 政(花押)
小堀遠江守
(捻封墨引)永信州様 政一
御中
【読み】
雨中御徒然と存候
然者ほたんミそ《(こ?)》へに一りんさき申候
めつらしきいろにて候拙者うちにてハ
是ニつゝき申花無之候御めにかけ候
つはき一りんめつらしきと
存候一りんハまち《(町)》にて候
いさはい《(諫早)》よくさき申を二りん
右の分進上申候恐惶謹言
八日 政(花押)
小堀遠江守
(捻封墨引)永信州様 政一
御中
解 説
本作は、小堀遠州の書いた永井尚正宛の手紙で、珍しい色の椿を見つけたので、お送りしますといった内容。
小堀遠州(1579-1647)は、江戸初期の茶人、遠州流の祖。また江戸幕府の奉行として建築、土木、造園を手がけた。名は政一、通称は作介、号は孤篷庵、道号は大有宗甫。近江国小堀村(現在の長浜市)の出身。はじめ豊臣秀吉に、のち徳川家康に従い、父である正次の死後は家を継いで近江小室1万石を領し遠江守に任ぜられた。
作事奉行を多く歴任し、建築、造園の才を発揮、二条城、仙洞御所などを手がけた。早くより古田織部に茶の湯を学び、寛永13年(1636)には、3代将軍である徳川家光に献茶し、その茶名が天下に知られた。
茶道具においても名物の位付けである中興名物を定めるとともに、遠州七窯といわれる国焼の振興に寄与、この他にも書画、和歌、生花などにもすぐれた才能を示した。
永井尚政(1587-1668)は、江戸時代前期の大名。永井直勝の長男として駿河国に生まれる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに従軍し、慶長7年(1602年)には徳川秀忠付の小姓となった。慶長10年(1605)4月26日、任官して信濃守を称した。
寛永十年(1633)に、老中に任ぜられ、山城淀藩初代藩主となり、遠州や京都所司代であった板倉重宗らと共に、機内警護の任にあたった。
小堀遠州(1579-1647)は、江戸初期の茶人、遠州流の祖。また江戸幕府の奉行として建築、土木、造園を手がけた。名は政一、通称は作介、号は孤篷庵、道号は大有宗甫。近江国小堀村(現在の長浜市)の出身。はじめ豊臣秀吉に、のち徳川家康に従い、父である正次の死後は家を継いで近江小室1万石を領し遠江守に任ぜられた。
作事奉行を多く歴任し、建築、造園の才を発揮、二条城、仙洞御所などを手がけた。早くより古田織部に茶の湯を学び、寛永13年(1636)には、3代将軍である徳川家光に献茶し、その茶名が天下に知られた。
茶道具においても名物の位付けである中興名物を定めるとともに、遠州七窯といわれる国焼の振興に寄与、この他にも書画、和歌、生花などにもすぐれた才能を示した。
永井尚政(1587-1668)は、江戸時代前期の大名。永井直勝の長男として駿河国に生まれる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに従軍し、慶長7年(1602年)には徳川秀忠付の小姓となった。慶長10年(1605)4月26日、任官して信濃守を称した。
寛永十年(1633)に、老中に任ぜられ、山城淀藩初代藩主となり、遠州や京都所司代であった板倉重宗らと共に、機内警護の任にあたった。