南天雄鶏図(動植綵絵、宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

 

伊藤若冲(1716年~1800年)は江戸時代に京都で活躍した画家です。

 

隠遁を好む京都の若旦那

若冲は京都の錦市場の青物問屋「桝源」の長男として生まれました。若冲と縁の深かった相国寺の大典和尚によれば若冲は無趣味な人物であったようで、京都の問屋の跡取りであるにもかかわらず、学問もしなければ字も下手で、習い事なども一切しなかったと伝えられています。女性にもあまり興味がなかったようで、生涯独身を通しました。

23歳のときに父の死去により若冲は家督を相続し桝源の主人となりますが、商売に精を出す性格でもなかったようです。大典和尚によれば若冲はむしろ人を避ける生活を好み、絵だけに没頭する人物でした。人は避けていたようですが、動物には優しかったようで、大典は若冲が市場で生きた雀が売られているのを可哀想に思い、数十羽を買い求めて自宅の庭に放してやった逸話を回想しています。

他のどんな趣味や芸事にも興味を持てなかった若冲が唯一見つけたものが絵画でした。若冲の名前は老子道徳経の「大盈(えい)は沖(むな)しきが若きも、其の用は窮まらず」(大いに満ち足りているものは空虚のように見えるが、その働きは尽きることがない)から取られており、若冲は多くの人々が楽しむような娯楽に興味を示さず、周りからは「空虚な」人物と映ったかもしれませんが、実際には後世に残るものを心に秘めていたということを表しているのかもしれません。

若冲の家業は生産者や商人たちに商いの場を提供する問屋だったため、その地代によって若冲は絵画に没頭することができました。画家となることを志した若冲は、まず当時主流だった狩野派の技法を学びますが、狩野派の技法を極めても狩野派の枠を超えることはできないと思い、次に京都の寺院を訪れては所蔵されていた中国の絵画を見せてもらう日々を送ります。若冲の初期の作品には狩野派や中国画の影響を受けたものが見られますが、先達の絵画を十分に学んだ若冲はやがて現実の植物や生き物に絵の手本を求めるようになります。

家業によって絵に専念することができた若冲は、動植物の写生に没頭しました。若冲の有名な鶏の絵は若冲のそうした姿勢の結果だと言えるでしょう。若冲は様々な動物を写生しましたが、孔雀や鸚鵡などは普段から見ることのできるものではなかったため、まずは鶏を数十羽飼い、何年もかけてその形や動作を研究する日々を送りました。若冲はそこから様々な動物や植物へと題材を広げていったため、鶏は若冲にとっても思い入れのある動物であったでしょう。

 

 

群鶏図(動植綵絵、宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

若冲販売作品はこちら☜

 

若冲の自信と動植彩絵

狩野派や中国画の影響を受けた初期の絵から始まり、その後傑作を生み出してゆくにつれて自分の画才に確信を持った若冲は、大典によると次の言葉を残しています。変わり者と思われていた世間の評価に対する異議申し立てでもあるのかもしれません。

現代のいわゆる絵というものは、絵を絵に描くだけのもので、物をしっかり描けているものを未だかつて見たことがない。しかも技巧によって売れようとしているだけで、技巧を超えた領域に達したものは未だかつて無い。自分が人より変わっているとすれば、それだけだ。(『藤景和画記』)

若冲は「物をしっかり描く」ことの大切さを強調しています。この自信に満ちた表明は、徹底して写生を行い、動植物を観察したところから来る自信なのでしょう。若冲の描く鶏は生き生きとしていますが、それは動物をしっかり観察した結果だということを、若冲は強調したかったのでしょう。

こうして画家としての自信を得ていった若冲は、40歳前半のころ代表作とされる動植綵絵30幅の作成に取りかかります。

菊花流水図(動植綵絵、宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

若冲販売作品はこちら☜

動植綵絵は鶏や鶴、孔雀、鸚鵡、梅や菊などの動植物を描いた彩色画で、若冲はこれらの作品群を後世に残すため、絵を売るのではなく付き合いのあった相国寺に寄進しました。また、美術史家の佐藤康宏先生は若冲が動植綵絵を寄進した理由は亡くなった父の供養のためではないかという説を提示されています。若冲の父源左衛門は若冲が23歳のときに亡くなっていますが、父親の33回忌に相国寺に奉納した位牌には、動植綵絵30幅と三尊像3幅を喜捨したと書いてあります。つまり、父親の33回忌に33幅の絵画を寄進し、父の供養とするという若冲の思い入れが動植綵絵にはあったのかもしれません。

また、画家としての若冲にとっても動植綵絵は重要な作品だったようで、寄進状には次のように書いてあります。

これらの作品は世俗的な動機で作ったものではございませんので、相国寺へ喜捨し、寺の荘厳具として永久に伝わればと思います。

つまり、自分の作品が永久に残るように若冲は動植綵絵を相国寺に寄進しました。そして若冲は「わたしの絵の価値が分かる者を千年待つ」と言い残しています。この動植綵絵の完成をもって若冲の名声は極まったと言われていますが、若冲自身は自分の絵はまだまだ理解されていないと思っていたようです。

錦市場の窮地を救う

動植綵絵のような彩色画を30幅も完成させるには大変な労力と年月が必要となりますが、家業である青物問屋「桝源」から得られる収入がそれを保障しました。しかし若冲が55歳のときに桝源のある錦高倉市場に危機が訪れます。

同業者の五条問屋市場の働きかけによって、錦市場に奉行所から差し止めの処分が出されました。この錦市場の存続の危機に立ちあがったのは、市場を構成する町の1つである帯屋町の町年寄をしていた若冲でした。若冲はこのころ既に家督をゆずって隠居をしていましたが、銀15枚を納めて差し止めを撤回させるなど錦市場のために精力的に動きます。しかし五条問屋市場が銀30枚を納めたため、錦市場にはふたたび差し止めが言い渡されます。この間若冲には若冲が町年寄をつとめる帯屋町だけ差し止めから除外する条件で買収工作が行われたようですが、絵以外のものに興味がない若冲は動じませんでした。結局この騒動は数年にわたって続き、最終的に年間銀35枚を納める条件で錦市場の再開が許されました。もし若冲がいなかったら、錦市場は今ある姿ではなくなってしまっていたかもしれません。錦市場のために積極的に動く若冲の姿は、大典和尚の伝える外界との接触を嫌う若冲とは少し異なる若冲の側面を伝えています。

京都深草に隠居

動植綵絵を含む若冲のこれまでの活発な活動は、家業である桝源からの収入に支えられていたと言えます。しかし若冲が73歳のとき、天明の大火が起こって京都の大部分が焼失し、若冲も住居と工房を失います。これまで住居や工房を複数持っていた若冲ですが、京都の中心地から少し離れた深草の石峰寺の門前に隠居することになり、米1斗分を対価に絵1枚を売り、石工を指揮して石峰寺に五百羅漢像を作りながら、静かな余生を過ごしたようです。

参考文献

  • 辻惟雄『若冲』講談社学術文庫、2015年
  • 狩野博幸『若冲 名宝プライスコレクションと花鳥風月』宝島社、2015年
  • 佐藤康宏『若冲伝』河出書房新社、2019年

若冲販売作品はこちら☜