達磨図(神勝寺・荘厳堂蔵)

白隠慧鶴(1685年~1768年)は江戸時代の禅僧で、民衆への布教に尽力し、多数の書画を残しました。臨済宗の中興の祖と言われる名僧で、現在の臨済宗の僧侶はすべて白隠の弟子とも言われるほど日本の禅宗において重要な人物です。

白隠の子供時代

白隠は駿河国原宿(現在の静岡県)の問屋に生まれました。幼少の頃、白隠は母に連れられて行った昌原寺で日厳上人が地獄の恐ろしさについて語るのを聞きます。日厳上人がいかにも恐ろしげに語ったためか、この体験は白隠に強烈な印象を残します。幼い白隠は恐怖に震え、その後も地獄の恐ろしさを思い出しては泣き伏せる日々が続きます。白隠はのちに当時の事を振り返って次の様に書いています。

幼い身だったので共に語って慰めあう友もいなかった。その後人気のない場所に行って、声をあげて泣き沈んだ。(『策進幼稚物語』)

しかしこの体験が白隠の転機となりました。その時に見た「日親上人鍋かぶり」という浄瑠璃のお芝居で、日親上人が真っ赤に焼けた釜を頭に被っても落ち着き払って動じない様子を見た白隠は、出家して仏弟子になれば地獄の恐ろしさも克服できると考え、15才の時に松蔭寺で出家します。

その後白隠はさまざまなお寺で修行に励みましたが、19歳のときに禅叢寺で唐代の名僧巌頭和尚が賊に殺される最期を遂げたことを知ります。白隠は次のように言っています。

巌頭といえば500年に1人の名僧ではないか。この人でさえ賊に殺されることを免れないなら、誰が死後三途の川を渡ることができるだろう。(『壁生草』)

こうして仏教の修行に一度落胆した白隠は、今度は詩や書に励んで一旗揚げようと決意します。杜甫や李白などを手本に勉強しますが、詩を勉強しても地獄の苦しみを逃れられるのだろうかという不安が再び頭をもたげてきます。その時にある家の主人が大愚禅師の墨蹟を大切にしているのを見て、この掛軸がこれほどにも大切にされているのは大愚禅師に高い徳があったからだと考え、白隠はふたたび仏教の世界に専念することになります。

その後修行を続けた白隠は、7日間の断食のあと遠くに鐘の音が響くのを聞いて悟り、次のように叫んだと言います。

巌頭老人はやはりご無事だった!

白隠の禅画と公案

賊に襲われて亡くなったはずの巌頭和尚が無事とはどういうことでしょう? 禅の世界にはこうした不思議な問いかけがたくさんあり、禅問答や公案と呼ばれています。白隠の禅画には民衆に禅を広めるため、公案を絵にしたものが多くあります。

例えば以下の絵は無門関という公案集のなかの「牛過窓櫺」(ごかそうれい)という公案を白隠が絵にしたものです。牛過窓櫺とは、「牛が窓を通り過ぎるとき、頭や角、脚は通り抜けることができたが、しっぽだけは通り抜けることができなかった」という公案です。大きな図体は通り過ぎることができたのに、何故小さなしっぽは通り抜けられなかったのでしょう?

(神勝寺・荘厳堂蔵)

また、白隠自身が作った公案に「隻手の声」というものがあります。「両手を打てば音がするが、では片手ではどんな音がするか」と白隠は聞きます。片手の音とはどんなものでしょう? なぜ巌頭和尚は無事だったのでしょう? 白隠は絵を通して現代の人々に問いかけているのかもしれません。

菩提心の禅僧

白隠はこのように民衆に禅の心を伝えることに熱心な人物でした。書画もそのための手段だったのです。白隠は菩提心(悟りを求め世の人々を救おうとする心)を生涯大切にしました。白隠の絵に見られる迫力と優しさには、その想いが籠もっているのかもしれません。

(個人蔵)

参考文献

  • 芳澤勝弘『壁生草 幼稚物語』耕文社、1999年
  • 芳澤勝弘『白隠 禅画の世界』中公新書、2005年