「松山為兵衛・伊藤二郎兵衛宛消息」

黒田長政

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作家名
黒田長政
作品名
「松山為兵衛・伊藤二郎兵衛宛消息」
寸 法
本紙:15.1×46.6cm
総丈:106.8×60.4cm
手 法
紙本・墨
解 説
【翻字】
  以上
野口左介ヲ以越書状
具披見候其元普
請之儀来年可仕よりも
只今次而ニ可仕之由各
申候段得其意候随
分念を入可申付候我等
事も其元普請
出来之前かと可参
候間其節可申越
候也
十一月廿九日長政(花押)
 松山為兵衛とのへ
 伊藤二郎兵へとのへ


黒田長政が、家人である松山為兵衛・伊藤二郎兵衛に宛てた消息で、内容は、城の普請に関するもの。

野口左介は、野口一成(1559-1643)のこと。安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。筑前国福岡藩士で、黒田二十四騎の一人。通称は左助、藤九郎。播磨国加古郡野口の出身。教信寺の僧である浄金の子。浄金は黒田孝高と親しく、元服後、黒田氏の家臣となる。その後、黒田氏が筑前国に入国した後は、鉄砲組大頭に任命されて2500石を拝領。また、益田正親と共に福岡城の石垣普請奉行も務め、1606年(慶長11年)の江戸城天下普請の際には、母里友信と共に天守台の石垣を担当した。

松山為兵衛は、黒田家の家臣。『播州豊前筑前筮仕諸臣名簿』によると、黒田氏が、筑前国に入府した後に出仕した人物。

伊藤二郎兵衛は、伊藤次郎兵衛のこと。黒田家の家臣。『播州豊前筑前筮仕諸臣名簿』によると、黒田家が播磨にいた頃からの家臣。1621年(元和7)の遠賀堀川の治水工事では、下司(中世以後、現地で荘園の事務を司った荘官の下級役人)を務めた人物。

黒田長政(1568-1623)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。黒田孝高の嫡男。幼少より人質として羽柴秀吉のもとにあり、1582年(天正10)中国経略に初陣して以後、九州征伐、朝鮮出兵等の諸戦役で勇将の名をはせた。89年、父の所領豊前6郡を譲られ、従五位下甲斐守に叙位された。関ヶ原の戦では、父とともに徳川家康にくみし、その功で筑前52万3000石を領した。1623年、将軍秀忠の上洛に先立ち上京し、京都の宿所で病死。

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