「丹羽長秀(惟五郎左)宛消息」
豊臣秀吉
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- 作家名
- 豊臣秀吉
- 作品名
- 「丹羽長秀(惟五郎左)宛消息」
- 寸 法
- 本紙:29.7×48.5cm
- 手 法
- 紙本・墨
- 制作年
- 1585(天正12)年 卯月廿一日
- 備 考
- ・画面下に「羽筑/秀吉(花押)」
・惟五郎左…丹羽長秀(1535-1585)。織田氏の宿老で本能寺の変の後には秀吉の軍に参戦し山崎の戦いで光秀を討った。
・文中の「普請」は大阪城天守閣の普請のことか?
【読み】
此間者普請
取紛候て人〻候も
不参候心外之
至候何様与風
見廻申へく候
樽一宇治丸鮨
一桶進之候
到来ニまかせ候
かた〳〵以面
可申候間不能
巨細候恐〻謹言
羽筑
卯月廿一日秀吉(花押)
惟五郎左殿 - 解 説
- 本能寺の変の後、秀吉と共に明智光秀を討った丹羽長秀(1535~1585)に宛てた、秀吉の書状です。
文中には、秀吉が長秀を見舞い「宇治丸鮨」を送ったとあります。
宇治丸鮨は室町時代からの宇治の名産品で、鰻を使った姿鮨のこと。
長秀は1584(天正12)年3月に小牧・長久手の合戦で秀吉方に属し活躍しますが、翌、1585(天正13)年4月16日に、病にて死去します。(『織豊期主要人物居所集成[第2版]』(思文閣出版))
秀吉のこの書状が書かれた天正13年(1585年)4月21日には、長秀はすでに亡くなっていたと考えられます。