詩書屏風(二曲一隻)
祇園南海
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- 作家名
- 祇園南海
- 作品名
- 詩書屏風(二曲一隻)
- 寸 法
- 本紙:126.5×55.0 ㎝
総丈:174.4×189.0 cm - 手 法
- 紙本・墨
- 備 考
- ・右隻・画面右上に関防印「鏡華水月」
・左隻・画面右下に「祇子瑜」・印「祇園餘印」・「一字伯玉」
・読み
【右隻】
三春行楽地/韶華溢芳甸/楊柳乱如絲/落花飛以霰/亦竹激清音
間開雑鳥囀/行芳典羅綺/今日何相戀
【左隻】
濁醪有玅理/此理惟我知/醉倒花前夢/狂唫月下詩/朗観天地間
萬物我何為/於身在飲者/陶後又誰追
- 解 説
- 祇園南海の手による詩書で、二曲一隻の屏風です。一扇に一句の五言律詩が揮毫されています。
南海は、若いころから詩作に優れた才能をあらわし、多くの詩書を残しており、屏風装の大型の作品も本作以外に五点ほど確認されています。
祇園南海(1676~1751)江戸時代中期の儒学者、漢詩人、文人画家。日本文人画の先駆者としても知られ、服部南郭、彭城百川とともに日本文人画の祖とされる人物。
紀州藩の藩医祇園順庵の長子として江戸に生まれる。名は瑜、字は伯玉。南海は号。湘雲、信天翁などの別号がある。本姓が源であることから、中国風に修して源瑜、阮瑜と称した。
元禄2年(1689)木下順庵に入門、元禄10年和歌山藩の儒官となり、和歌山に赴くが、元禄13年不行跡のため城下を追放。宝永7年(1710)許され、新井白石の推挙で、朝鮮使節の接待役に列す。同三年藩校湊講館が創設され、その長となる。
南海は書画にもその才能を発揮し、当時はまだ文人画の学習期にあり、中国渡来の画譜である『八種画譜』や『芥子園画伝』などの版本を通じて元・明文人画の知識や技法を習得し、日本の文人画を開拓した。柳沢淇園やのちに日本文人画を大成する池大雅も南海の指導を受けるなど、後世に与えた影響は大きい。