竹内栖鳳(1864-1942)は、明治から昭和時代に活躍した日本画家。近代日本画の先駆者。本名は恒吉、はじめ棲鳳と号す。別号に霞中庵。
京都市中京区の料理屋に生まれ、14歳で四条派の土田英林に門下に入り、17歳より同派の幸野楳嶺に師事する。この頃から頭角を現し、「楳嶺四天王」の筆頭と呼ばれるようになる。明治16年(1883)より、菊池芳文らとともに京都府画学校(現・京都市立芸術大学)の出仕となり、翌年、第2回内国絵画共進会に出品し褒状を受け、以降、内国勧業博覧会、日本美術協会、青年絵画共進会、日本絵画協会などに出品し、数々の受賞を続け、明治32年(1899)には京都市立美術工芸学校の教諭に推挙された。 明治33年(1900)、パリ万国博覧会の視察を任命され、およそ半年の期間、渡欧。各流派の筆意が混在した画風が一時は「鵺派」とも揶揄されたが、以降、円山四条派の伝統的な写生を基礎に、西洋絵画や中国古典絵画の写実性を取り入れ、独自の様式を確立した。
また後進の指導にも積極的に取り組み、西山翠嶂、土田麦僊、小野竹喬、上村松園、徳岡神泉、山口華楊、橋本関雪ら数多くの門弟を育てた。

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