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「消息(三月三日付)」

沢庵宗彭

  • 「消息(三月三日付)」
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作家名
沢庵宗彭
作品名
「消息(三月三日付)」
寸 法
本紙:31.8×49.3cm
総丈:103.8×50.8cm
手 法
紙本・墨
備 考
・画面左に「上巳 宗彭(花押)」


【読み】
先日者結構之御茶
黒豆一重為御音信
贈賜候。早速以書状也共
御礼可申入之処、打続
用之儀共候而延引失本
意候。天祐和尚御請取候間
不苦之旨、応貴命、無
沙汰背本意候。不図以参
御礼可申候。恐々謹言
   上巳  宗彭   花押
一書如此候
  猶々好便之由、従
  天祐和尚承候間、先
一書如此候
何様近日以参可申入候。

【口語訳】
先日は結構な御茶と黒豆一重ねを御挨拶としてお贈り頂きました。
すぐにお手紙を差し上げましたが、直接御礼を申し上げるべきのところ、
続けざまに用事などが出来て延びのびになってしまい、
本意ではないところです。
天祐和尚がこの手紙を請け取られるまで何事もなかったこと、
そちらの仰せに従いました。
ご連絡しなかったのは私の本意に反することでした。
ここで畏れ多くも御礼を申し上げる次第です。恐々謹言
上巳(三月三日)  宗彭   花押

手紙はこの通りです。
なお、良い知らせがあったこと、天祐和尚よりお聞きしておりまして、
先ずはぜひとも近日中にお話に伺いたく存じます。
解 説
本作は、沢庵宗彭の書いた、お茶と黒豆を頂いたことへの礼状。宛先は不明である。直接お礼をしたかったが、手紙で済ますことへのお詫びが記されている。また、文中に出てくる天祐和尚は、天祐紹杲のこと。

 沢庵宗彭(1573-1645)は、江戸前期の臨済宗の僧。但馬国出石の生まれで、天正14(1586)年、14歳のときに郷里の出石宗鏡寺の塔頭勝福寺、後に上洛し、大徳寺塔頭である三玄院の春屋宗園(1529-1611)に師事しました。
 慶長14年(1609)、36歳で勅招により大徳寺第154世住持に出世したものの、わずか3日でと大徳寺を去り、戦禍に焼けた南宗寺や、荒廃した宗鏡寺を再興。寛永6年(1629)には紫衣法度をめぐり、幕府に抗弁したことにより、出羽国上山に流罪となりましたが、寛永9年(1632)には赦免され江戸に入り、徳川家光(1604-1651)の深い帰依を受け、寛永15(1638)年には江戸品川に東海寺を創建しました。

天祐紹杲(1586-1666)は、江戸初期の臨済宗の僧、近江の出身。別号に夢伴子、実夢叟、柔兆子。万江宗程の法を嗣ぎ、寛永2年(1625年)大徳寺169世住職となり、仏海祖燈禅師の号を後水尾天皇より賜った。のち大和徳源寺開山となる。沢庵宗彭と親しかったと伝えられる。
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