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「風景」

土田麦僊

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作家名
土田麦僊
作品名
「風景」
寸 法
本紙:28.2×36.5㎝
総丈:122.2×50.1㎝
手 法
絹本・岩絵具
制作年
大正8年(1919年) 
備 考
・共箱表「風景」、裏「己未仲秋麦僊題」
・右上サイン「麦僊」、印 「麦仙」
・東京美術倶楽部鑑定書付
解 説
本作は、土田麦僊の描いた風景図、前景中央に、画面全体に広がるほど大きな松を描き、その左方には二軒の家屋を、前景右方から画面中央を横断するように大きく河川を配し、そこを渡る渡船が描かれる。遠景には画面上部を覆うように大きく岩山を、その手前には家々が配されている。
画面中央に松を大きく描き、遠景に小さく家屋を配することで、遠近感を表現している。本作と同様の構図をとる類似作品の存在が知られており、また、付属する共箱の墨書から大正8年(1919)に制作された作品であることが確認出来る。

土田麦僊(1887-1936)は、大正、昭和時代の日本画家。新潟県佐渡郡新穂村(現在の佐渡市新穂)の生まれ。本名は金二。哲学者の土田杏村(茂)は弟。
17歳の時に京都の智積院に預けられたが、得度前に出奔し、鈴木松年の門下に入り、間もなく竹内栖鳳の門下に転じた。明治41年(1908)写生画を推し進める栖鳳が中心となった第2回文展に『罰』を出品し、三等賞を受賞。翌年創立された京都絵画専門学校別科に入学した。11年の卒業制作『髪』は第5回文展で注目され、大正7年(1918年)、麦僊は同じ京都市立絵画専門学校出身の同士であった村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花らとともに国画創作協会を旗揚げし、官展を離脱して新日本画開拓の運動を起こした。明治21年から23年にかけてヨーロッパに遊学。印象派、後期印象派の影響を強くうけ、伝統的な日本画に西洋絵画の重厚なマチエールや合理的な空間把握、幾何学的な構図などを取り入れた新たな様式の創造を目指した。昭和3年(1928)に国画創作協会が解散すると、帝展に活躍の場を移し、昭和5年には審査員、9年には帝国美術院会員となった。
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